禅寺歳時記 11月 落ち葉の話

さて、11月もこれといって全国的に有名な仏事はありませんので、例によって例のごとく、歳時記になります。
 11月ともなれば、落ち葉の季節です。ま、11月に限らず、年中、お寺は掃き掃除に草取りですけどね。さて、小林一茶の句です。
  焚くほどは風がくれたるおち葉かな 
 今は「落ち葉焚き」という風景はほとんどが見ることができません。やたらな所で落ち葉でも燃していると、通報されて「ウー、ウー、ウー」消防車が駆けつけてきます。そういえば童謡で「たきび」というのもありました。
  垣根の垣根の曲がり角
  焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き
 今は野焼き禁止ですので、焚き火という風物詩は消えてしまったのでしょうね。
 昔は落ち葉を掃いて集めて、焚き火にしたのでした。焼き芋なんかも焼きました。小林一茶は江戸時代の俳人ですので、朝、寒い中、掃除をして、暖を取るために焚き火をしたのでしょう。燃料である落ち葉は自然がそれくらいの贅沢なことは「くれるよ」ということです。
 この句によく似た句があります。
  焚くほどは風がもて来る落葉かな 
 詠んだのは曹洞宗の僧侶、良寛さんです。実は二人には交流があり、一茶が詠んだ「風がくれたる」を良寛さんが「風がもてくる」と変えたといわれています。3文字しか違いませんが、良寛さんの方がさすが、禅宗のお坊さんだなあと感心してしまいます。
 確かにひいき目に見ているのかもしれませんけどね。
 良寛さんの句は人と自然との垣根がありません。「人」と「自然」とが融合しきっています。「落ち葉を落とす木」「風」「落ち葉を掃く人」「焚き火」「煙」「落ち葉で暖をとる人」「燃えて消えていく落ち葉」が一体化しています。
 さて、焚き火はできませんが、落ち葉を掃くのは禅宗にとって大切な修行の一つです。そこで良寛さんのように考えてみましょう。
  掃くほどは風がもて来る落葉かな 
 修行するに十分な落ち葉は風が持ってくる、ということです。「人」も「修行」も「自然」も一体化できればいいなと思います。
 修行できるくらいの落ち葉を風が運んでくれるだけで十分です。苦行するほどはいりません。