平成23年5月 北宗禅と南宗禅

弘忍は慧能に伝法衣を授けるが

弘忍は慧能に伝法衣を授けることを決めるが、神秀は慧能より30歳も年長であり、弘忍のもとで長らく修行を重ねていた。 いっぽうの慧能は年若く、修業歴も浅い。神秀という大先輩をさしおいて慧能を後継者に選んだことが分かれば、弟子のあいだに悶着が起こり 慧能に危険が迫らないともかぎらない。
そこで、弘忍は慧能にこっそりと衣鉢(えはつ・いはつとも読む。衣と食器のこと)を与え、南方へと逃がし、数年間は説法をしてはならないと 戒めた。禅では衣と鉢を与えることが、教えを継承する者に定めたことを示す象徴的な行いとされている。
しかし、これを察知した大勢の弟子が慧能を追いかけ、弘忍から与えられた衣鉢を奪おうとした。慧能は、「伝授の象徴である衣鉢を争いの種 にさたくない」と衣鉢を石の上に置いた。それを見た弟子たちは慧能の真の思いに触れ、慧能の帰依したという話も伝えられている。
こうして慧能が南に去ると、神秀は弘忍の禅法を長安や洛陽などに広めていった。これらの都市が中国北部にあったことから、神秀の 禅を北宗禅という。いっぽう、慧能は新州、韶州など中国南部で活動したので、慧能の禅は南宗禅と呼ばれる。
北宗禅は、修業を積み重ね順序を踏まえ悟りに深く入っていくことを特徴とする。これに対し、南宗禅は修業を積むことには変わりないが、 順序を経ることなく、突然として悟りを開くことが特徴である。
しかし、北宗禅はしだいに衰えていき、法系は途絶えてしまう。いっぽう南宗禅は南獄(なんごく)、馬祖(ばそ)、百丈(ひゃくじょう)と、 すぐれた弟子によって受け継がれ、隆盛を極めていく。
また、それまでの禅の修行は坐禅をすることに主眼が置かれていたが、慧能の時代に入ると、生活そのものが禅としてとられる傾向が強まっていく。
また、初祖達磨、二祖慧可のように、代々、法を継いだ僧侶に数字がつき、衣鉢が伝えられてきたが、慧能はそれも廃止した。従って、慧能以降の僧 には、何代目かを示す数字はつかない。慧能は、法はただ仏から仏に伝わるものであり、形をもって伝えるものがあることを否定したのである。