平成22年8月 中国で隆盛した禅

仏教が中央アジアを経て、中国に伝わったのは、一世紀ごろとされる。後漢(ごかん)の明帝(めいてい)の世、中天竺(ちゅうてんじく)から、迦葉魔騰(かしょうまとう)、竺法欄(じくほうらん)が洛陽に来たことが伝えられている。さらに桓帝(かんてい)とつぎの霊帝(れいてい)のころ、安世高(あんせいこう)、支婁迦辰(しるかせん)、竺朔仏(じくさくぶつ)が相次いで洛陽にきて、多くの経を翻訳している。このとき禅も伝えられている。五世紀はじめには曇摩耶舎(どんまやしゃ)が長安にきて禅法を広げたという記録もある。
同じころ、鳩摩羅什(くまらじゅう)も亀茲国( 新疆ウイグル自治区)から長安(現在の西安)にやってきて、[座禅三昧経」(ざぜんざんまいきょう)などを訳している。羅什の弟子・僧叡(そうえい)は日夜禅を修したと伝えられるが、その方法まではわからない。ただ、曇摩耶舎(どんまやしゃ)は戸を閉ざし座禅をしていたと伝えられ、禅の教えの修得に坐禅が深く組み込まれてたのではないかと推測される。実際、四~五世紀ごろ曇摩密多はゴビ砂漠を渡って敦煌に行き、長沙寺に禅閣を作り、長安の鐘山(しょうざん)に移ってからは定林上寺を建てたが、ここにも禅房が開かれている。
 その後も、中国において禅はさかんであり、晋の高武帝が墓を築いた場所を僧・曇爽(どんそう)が寺としたころ、帝はこの寺を中興禅房と改めた。これは禅を行うための初めての施設とされるが、その規模は、都の僧がみな集まったと伝えられるほど壮大な規模だったと伝えられる。
ただし、当時の「禅」は、これから記していく達磨(だるま)により開かれた禅とは異質のものだった。どちらかというと理論的なものの修得を主な目的とした数学のひとつというみかたが多く、禅の開祖といえば、これから述べる達磨というのが定説になっています。